築地市場の歴史

築地市場のこれまでの歩み

魚河岸の名で親しまれた東京都中央卸売市場築地市場。
昭和10年の開設以来、80年以上の長きにわたり
巨大都市東京の食生活をささえ続け平成30年10月6日に閉場しました。

魚河岸発祥の記念碑

東京都中央区にある日本橋のたもとには魚市場発祥の記念碑が建っています。この碑文には今の日本橋室町一帯は「ことごとく鮮魚の市倉なり」とあり、漁場から新鮮な魚を運び、日夜市を立ててにぎわう魚河岸はこの辺りにあったと伝えています。

江戸時代

江戸時代初期(1603年頃)、幕府を開いた徳川家康は、江戸城内の台所をまかなうため大阪の佃村から漁師たちを呼び寄せ、江戸湾内での漁業の特権を与えました。漁師たちは魚を幕府に納め、残りを日本橋で売るようになったのです。それが魚河岸の始まりといわれています。
江戸時代の魚市場では「問屋」と呼ばれる商人が店を構え、魚の仕入先である生産地と結び付き独自の流通組織を作り発展しました。

江戸時代の魚河岸
江戸時代の取引

この頃の取引は、まず「問屋」が「荷主」から魚などの品物を買い取ります。「問屋」はこの品物を値段を決めないまま「仲買人」に渡します。「仲買人」はその品物を「小売商」に売らせたのです。「仲買人」は市が終わると、「問屋」に集まって、その日の売上結果を持ち寄りました。そしてこの時点で話し合いにより、値段を決めたのです。品物を小売してから、卸売の値段を決めるという今では考えられない取引が行われていました。

明治時代

明治の時代、市場は新政府のもと近代化へ歩みはじめました。問屋や仲買人は組合を作ってまとまり、当時の魚市場は千住、新場、日本橋、芝金杉の4ヶ所に統合、整備されました。しかし都市の人口が増えるとともに、取扱量や業者の数が増えて取引が乱れ、その上、不衛生な状況にとかく人々の非難を浴びました。そこで公設の中央卸売市場を望む声が高まってきたのです。

明治時代の魚河岸

大正時代

大正12年3月、流通の歴史を塗りかえる「中央卸売市場法」が制定されました。市場は東京市が指導、運営し、衛生的で公正な取引による価格と品質の安定を目指したのです。

市場法にもとづいて東京市が中央卸売市場の計画を進めていた矢先の大正12年9月、関東大震災が東京を直撃、未曾有の災害はすべてを焼きつくし、長い歴史を誇った日本橋魚河岸はその幕を閉じました。

芝浦の仮設市場

震災直後、芝浦に仮設市場が設けられましたが、同年12月には、交通の便が悪く、狭いなどの理由から、東京市は海軍省から築地の用地の一部を借り、市設魚市場として芝浦から移転させました。中央卸売市場開設までの暫定市場として建設したものでしたが、これが築地市場の始まりです。

昭和時代

昭和10年2月、築地に広さ約23万平方メートルの東京都中央卸売市場が開設されました。市場へ集まる生鮮食料品は旧汐留駅から引き込線を通して貨物列車で、また隅田川岸壁の桟橋から船で運ばれてきました。貨物列車を収容するために、扇状の建物が建てられたのです。市場は迅速、公正な取引を展開し、取引の結果を公表して価格を安定させ、市民生活を支える大きな力となったのです。

開設当時の築地市場

昭和16年12月、太平洋戦争が始まり、食料品は配給統制となりました。戦後も食料品の統制は続き、しばらくの間は市場本来の役割を果たせませんでした。

統制が解除された昭和25年以降は、市場の働きが回復し、入荷量が増えるにつれて人々の食生活も安定の方向に向かいました。

1970年代の築地市場(時計台通り)

高度経済成長期の昭和37年、東京の人口は1,000万人を超えました。さらに、漁業技術の発達や冷凍技術の進歩によって新鮮な魚が大量に水揚げされるようになり、野菜や果物は、農協などの出荷団体の組織が整い、生産の規模も拡大しました。そしてトラック輸送の進展で全国各地から市場へ荷が集まるようになったのです。

昭和10年より利用されてきた築地市場内の国鉄東京市場駅は、トラックの普及や高速道路網の整備などのため取扱量が減少し、昭和62年1月31日に廃止されました。

市場内を走る列車

平成時代

平成時代の築地市場

東京都中央卸売市場は首都圏の食生活をまかなう生鮮食料品などの流通の一大拠点に発展しました。中でも築地市場は日本最大の市場になり、平成17年実績で、一日平均3,350トンの魚や野菜などが入荷し、およそ21億円が取引されていました。

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